チャコ物語

息子が小学校の3,4年生の頃、うちに不思議な猫がやって来た。
その頃の内近辺のレギュラー猫、アル、クリストファー、ぶっちゃん。その下の世代のうちのシーラとちゃぴこ。はたまたその頃うちの猫になったクリストファー。

この猫たちとは血縁があるとは思えない。
白地に茶色の縞の大きな猫で、冬の寒いの朝みかけるようになって、うちの前の駐車場でランニング中に一息ついている少年とよく一緒にいた。

やがて、日当たりのいいうちの屋根の上やクーラーの室外機の上で昼寝するようになって、どうもこの猫は家なき猫ならしい。
冬場、寒くてかわいそうなのでうちの庇の下の雨風のあたらぬ場所に生協に返しそこねた箱の中に古いセーターを敷き詰めた物を設置しておいたら夜や天候の悪い日はそこで過ごすようになった。

普通、この手の地域猫というか野良猫は手懐けるのに時間を要する。
だが、この白茶猫は途轍もなく人懐こい猫で愛想よく、だからこそどこかの家で飼われている猫だと思っていた。

とうとう出自は分からずじまいだったのだけれど、近所事情に詳しい人の話を総合すると。
この猫、うちから5メートルばかり離れたマンションのベランダに住み着いた猫で、そのお宅で買われていた小型犬3匹と一緒にご飯を食べていたものの、そのマンションは建て替えで消滅。
そのマンションのおじさんも犬3匹も何処かに行ってしまった。

どうも、その時に行き場を失いうちの前の駐車場を彷徨っていたらしい。

アパート前をパトロール中のチャコ
当時うちの隣だったアパートの前を見回り中のチャコ。
このようなしっぽの長い猫だった。

チャコという名については特別に命名したわけではない。駐車場をジョギング少年と佇んでいた頃は何処かの飼い猫でそのうちに家に帰るだろうと思っていたので、茶ネコさんと呼んでいたのだ。

茶猫さんがつまってチャコになってそのまま名前になってしまった。

このチャコが生協の箱をねぐらとしてから、うちの猫になるのにはそうは時間はかからなかった。
だが、このチャコ人には超愛想のいい猫ながらうちの象徴的猫のシーラとちゃぴことはスゴーク仲は悪かった。
とりわけ、癇癪持ち猫のシーラはチャコを嫌いチャコを見かけるとヒステリーを起こすことも度々。

クリストファーは無視を決め込みシーラはヒステリー、ちゃぴこは怯える。
日向で寛ぐシーラとちゃぴこ
シーラとちゃぴこの姉妹は仲良し。

だが、このような状況を打開すべく救世主が現れたヽ(*´∀`)ノ
チャコを是非引き取りたい。人が現れたのだ。

理由はこうだ。
チャコそっくりの猫が行方不明、懸命に行方を探しているが未だ発見に至らず。
その途上にチャコを見かけた。
なのでこれは何かのご縁、この猫ください。

と、チャコ車で去っていった。
寂しい気はしたが、これでいいのだ。
あまりにシーラ、ちゃぴこ、クリストファーと仲が悪すぎる(つд⊂)

あんなに懸命に不明猫を探している人なのだから愛想のいいチャコは可愛がられて幸せになるであろう、、。
と感慨に耽ったのも束の間(正確には1時間も持たなかった。)

チャコ帰ってきた!
やっぱりこの猫お返しします。

理由はこう。
チャコ、車の中でも散々狼藉を働き暴れまくった。
更に家に入るやいなや牙を剥き(あのチャコが!??本当か?)家中を引っ掻いて、飛び回って物を叩き壊し、ここから出せギャオーと主張してどんなに宥めても欲求を引っ込めなかった。

チャコよ。そんなにヒステリーシーラ及び仲間はずれにする猫どもがいるこの家がいいのか?
わかったよ。
しぬまでここにいればいい。

椅子の上でポーズするチャコ
すっかりうちの猫になったチャコ。

夏、あまりの暑さに伸びているチャコ
夏の日のチャコ。

だが、この美しい白茶の毛並みとうちが大好き猫のチャコにも弱みがあった。
クリストファーもこの病で世を去ったが、チャコも腎臓、膀胱系が弱かった。

もっとも、これはクリストファー、チャコが野性生活をしていたためではない。
体質だ。
と、獣医先生に諭されたが、とにかくチャコは3回入院した。
入院するたびに病院の人気者になる可愛げのあるチャコであった。

なんで、引き取ってくれるっていう人のうちでそんなに暴れたんだい?

入院する度元気を取り戻し病を得てからも長くうちの猫として君臨した。

だが、不思議の猫チャコ、生年も享年も不明のまま。





あれから2年

とうとうあれから2年経った。
今から2年前、息子の就職が内定した。

内定が決定したとき、わたしは「おめでとうヽ(*´∀`)ノやったねv(=^0^=)v」
ではなく、、。
「それでどうするの?」
と、聞いてしまった。

で、就職するそうで、、はぁあ(゚Д゚≡゚Д゚)?良かった助かった。
5年間の芸能活動。
舞台を見に行ったりするのはそれは楽しかったけれど、、。

わたしだって、演劇活動している人というのはいくらでも知り合いにいた。(過去形今はほとんどいない。)
そしてその方たちなんと、勘当されている者が多かったこと。
今時、カンドーなんてものあるのかよ?
戦前のような公的勘当?!ではなくて私的勘当とでもいうのだろうが。

若きころのわたしは、カンドーだなんて酷いじゃない!なんで暖かく見守ってやれないのかしら?
と、そのように甘く考えていたものです。

だが、それが我が身に降りかかってくると、如何にその考えが甘かったかがよくわかる。
第一に、芸能活動というものはよほど売れている人じゃなきゃ、儲からない。

儲からないだけならいい。
生活が成り立つほど、芸能では稼げない。
なので非正規雇用してもらって、そっちで日々のかかりを稼ぐ。
ついでにレッスン代その他もかかる。

次、舞台での役が付けば嬉しいけど稽古の間、非正規雇用のシノギは休まなければならない。
いくらか出演料稼げてもバイト休んだ分の損失のほうが大きい。

社会的立場は、俳優やミュージシャンではなくアルバイトと言ったほうが通る。




そこから起こる第二の事象は、「もーヽ(`Д´)ノめんどー見切れないからうちから出て行ってくれ。」
つまり勘当となる。
それでも懲りないヤツはいっこうに懲りない。

舞台は麻薬だからだ。
それはわたしもよくわかる。

わたしも最初の頃こそ懸命に応援してやろう。の気合はあったけれど、、。
だんだん息が切れてきた。

息が切れてこれ以上はうちにいるからにはいくらか入れてくれ、それが出来ないならばカンドーするからな!!
のモードになってきてしまったのだ。

わたしがそのモードになった頃、息子もこのまま売れる日を夢見つついいおっさんになった後でもアルバイトの身分でいるのは本意ではない。
と、感ずるようになったらしい。

そうよ。芸能、舞台が好きで堪らなくても超現実的でせこいのはわたしからの垂直遺伝であるに違いない。

ともあれ、芸能を生業にする夢は潰え、しまいには息が切れたもののなかなか面白い5年間ではあった。

息子が就職し家を出てしまって、更に言えば完璧に経済的にも生活的にも自立してしまって全く手がかからない(いないんだから当たり前だけど)。
なので、今度はわたしが演奏活動してやろうかと企てている。

わたしの場合息子と暮らしたの日々は28年間、28年でその日は終焉を迎えた。