猫と家と少年野球の始まり

白毛金目銀目、サビ緑目の♀仔猫を手に入れたわたし。
母猫ぶっちゃんの飼い主には特に了解は得なかったが、この猫たちはわたしのものさ(キッパリ)

というか、白猫クリストファー、アル、バイカラーもしくはパンダ猫ぶっちゃんの飼い主は姿を見ることが極めて少ない。
ウワサによると夜働きしている。
とも演奏旅行((’◇’))に出ているとも(一応ミュージシャンだということだ。)、、。

どこで何してるかはとにかく、訪ねていっても偶然会うことを想定してもいないもの了解得るも得ないもない。

とりあえず、猫はうちの(=ΦエΦ=)となった。

そしてぶっちゃんもしくはブチ子+白猫2の飼い主アパートのとなりに家をわたしは手に入れる。
さぁ、ドードーと猫を飼うのだ。

そして、その家はアパートを改装したボロ家なので間借り人を置くことに決定。
間借り候補者あっという間に現れ、猫3匹連れて来ていいですか?

って、間借りするとしたらお宅様だけだから丸ごとOKよ。
で、決まり。

うちはわたしの猫となった白猫シーラ、サビ猫ちゃぴこと間借り人猫3匹の多猫所帯となった。

その頃、息子は町内会の少年野球チームに入りたがっていた。
だが、時は息子まだ保育園児、野球というものは小学生くらいにならなければ無理であろう。

だが、その少年野球チームの世話役の竹之丸地区には極めて少ない商店主からなんと入部を薦められる。

「あのー、まだ無理では、、。いえ、それ以前にあのような小さい子供は邪魔ではないでしょうか??」
いえいえ、あれくらいになればたくさんです。
本当か?

ならば、本人も入りたい。と、言っているものの反対する理由はわたし的にはない。
時に息子保育園年長組、成人したのちには185cmまで身長は伸びたが、この頃から背だけは保育園で1番高かった。

この少年野球、リトルリーグのようなカタギなものじゃなく、軟式で町内会の付属。
更に最年少とはいえ、入ったのだから何年後かのレギュラー目指さなくてはなりません。

だが、野球の練習は保育園児とはいえ家するわけには行かず、道端では危ないヽ(`~´)ノ アブナイ!!

だが、うちの恵まれていたことは

盲学校のグラウンド
4軒先に盲学校のグラウンドあるのです。

全国的にも珍しいミッション系私立の盲学校です。
近所の子供には使わせてくれるのです。

今現在は世の中が物騒になってきたので
施錠された門
このようにわたしの家側からは施錠してありますが、息子が保育園児から小学生だった頃はこの門じたいがなくて断りなしに子供野球の練習ならしてもOKだった。

猫たちと少年野球との幸せな日々の始まり。




またもや中心選手となる~社会人編

今現在の話、時々予告なく息子は帰省する。
就職したその時には2年間は帰ってこられないかもしれない。

と、言っていたが、テキトーに帰ってくる。
息子が車で帰省すると、助かるのはその車をわたしが使えること。
重い物や嵩張るものをまとめて買い出しに行く。

今回もフイに帰ってきた。

車は元はうちの車だったものを息子赴任先決定のおり、息子に譲った。
茨城県で新聞記者を勤めるには車は必需品だからだ。

そこにいくと、うちの方は車はあれば便利だがなくてもどうにかなる。
なので、そのまま息子のものとして水戸ナンバーとなって時々うちに来る。

おかげさまで今年は自動車税払わなくてすんだわ。
今回はわたしは箱入りペットボトルの買い出しをすませ、息子はお洒落な店での服の買い物をすませた。
やつは来月ボーナス出るし、今やうちでは1番の高給取りだ。

そして息子帰省の日には是非聞き出したかったこと。
スポーツ取材はとにかく、野球はもうやっていないのか?

残念なことにもう野球はやってない。とのこと。
だが、年に2,3回ソフトボールの試合をしている。そうだ。

そうか!そんなチームにはいっったのかどんなチームでどこと試合するのか?





それが、、!

試合をするは茨城県警科捜研チームvs県警記者クラブチーム。
その中でもと高校球児はふたりだけ。

したがってうちの息子は最強の選手のひとり。
やったね(((o(*゚▽゚*)o)))

そして一人前の社会人になってくれたものだ。

では是非試合を観に、、。
と、いってもね。
茨城まで行くのか、、。
それに年に2、3回じゃわたしの都合と合わない可能性の方が高い。

それにこれこそ親が観戦に行くものなのか?ふつう行かないだろう、、。

とうとう息子試合観に行くこともなくなったか、、。

社会人になってくれて、給料もボーナスも出るようになってくれたのは本当に良かったけれど(´∀`)
息子の試合のない暮らしは慣れたとはいえ寂しい。

はぁ~(゚Д゚≡゚Д゚)?
心の何処かでやっぱりあの日に戻りたい(;_;)
高校球児だった頃はよかったヽ(;▽;)ノ

せいぜいわたしは野球観戦、プロ野球の二軍戦と、独立リーグの試合日程調べて観戦に出かけよう。





孤猫に満ち溢れていた頃

昔は良かった。
わたしもその程度には年取った。

どう良かったかっていうと、この家のまわり空き地が多かった。

今、わたしの家の前に6軒の家の地所は元は駐車場、その前は某デパートの女子寮の成れの果て、つまりは廃屋だった。
家6軒分が建ったくらいの広さがあったんだから今思えば庭がバカに広いおっそろしく贅沢な造りだったのだ。

廃屋というのはなんだかゾクゾクするような魅力がある。
それが何?
空家なんて迷惑以外の何者でもない。
のご意見は重々承知だけど、、。

とにかく、遊んでる空間が多かった。
後に高校球児となり、そののち大学生、塾講師、俳優、新聞記者となってとうとう家を出てしまった息子は子供だった。

その廃屋の近くにこれまた時代に取り残されたようなアパート、そこにある時珠のごとく美しい白猫が引き取られた。
はたまた、違うアパートのおじさんが面倒を見ている金眼銀眼の玉三郎という名の大きな♂の白猫。

なんでも珠のような白猫は旅行中のお友達から留守の間預かっているという。

なのでほんの数ヶ月で珠の如く美しい白き♀猫は姿を消す。
お友達に返した。という、、。

だが、なんとまぁ、仔猫差し上げます。の張り紙。

どうしたんでしょうね?まさか(゜д゜)
そうです。
あの美しき白猫の子供だそうです。

仔猫は白の♂2匹白黒バイカラーの♀1匹。
貰い手仔猫の頃つかず、お母さん猫は元の飼い主に返したが仔猫は残った。

仔猫たちの運命や如何に?あの猫預かりのお兄さんは3匹の猫を飼えるのか貰い手見つけられるのか?
猫は1年で仔猫じゃなくなる。
猫ども3匹とも飼われていて、貰い手は見つからなかったらしい。

わたしが貰っても良かったのだけれど当時はアパート暮らしだったし一応飼い主いるんなら良かろう。
飼い主さんちゃんと名前をつけていたが、、、。

猫たち、うちの息子ともよく遊んでいた。
遊びついでに3匹猫の本来の名前とは違う名前を息子は付けた。

白猫2匹はクリストファーとアル。バイカラーはぶっちゃん。



猫は1年で大人になる。
仔猫でなくなった猫、クリストファーは新しいテリトリー求め放浪の旅に出てしまった。

アルは留まった。
そしてぶっちゃん仔猫を生む。

飼い主。どうする?
だがだが、どうも飼い主の所在が掴めない。クリストファー、ぶっちゃん、アルは飼い主の帰り待つにしても仔猫は、、。
クリストファー、アル、ぶっちゃんは孤猫となってしまったのか?

その時息子確か3歳か4歳。
まだ手がかかるが猫くらいいてもどうにかなるだろう?

そんな時、わたしのとる道は、、。
孤猫となったぶっちゃんの仔猫、白の金眼銀眼シーラ、サビ猫のちゃぴこ頂いてこっそりアパートで飼育することにした。

次なる手立ては、この近くに自己所有の一軒家手に入れて音楽教室を始めて息子と仔猫2匹を育てるのだ。




草野球の日々

息子、大学を卒業し塾の講師その他に就業しつつ芸能活動をする。

忙しい日々を送っていた。
と、言いたいところだが、塾もその他も常勤なわけじゃなく芸能人としても売れているわけでもない。
舞台があればそりゃ大変だけど常時あるということではない。

つまりは就職した同期の高校チームメートや大学チームメートの中では時間の都合はつくほう。
そのためもあってか大学卒業しても2つくらいのチームに所属していた。

ひとつは高校の時のお友達チームもうひとつは塾のチーム、その他にもうちの息子は高校時代スタープレーヤー??!だったので、頼まれて試合に出ることもあった。



だが、とうとうこの頃からわたしは息子の試合を観に行くことはなくなった。
だいたい、息子もう自分で車運転して試合に行く。

帰ってくれば相変わらず洗濯物一式を出してくれるが、高校の頃みたいだ大掛かりな洗濯はしなくてすむようになった。

この大学卒業してから、就職するまでの期間は熱心に観に行ったのは息子の舞台のほうで息子野球への愛は衰えていた。
それでも1度、わたしでなくうちの元球児パパが息子草野球を観戦した。

それも息子の活躍を目の当たりにした一心で出かけたんじゃない。
忘れ物届けに行ったのだ┐(´д`)┌ヤレヤレ

そのついでに観戦したのだが、ふたり帰ってきて、、。
あの子(高校の頃のチームメート)はもう走れないのか、守れないのか?!って、、。
そりゃそうよね。

高校時代の記憶あるものだから、あらどうしたんでしょ?なんでこんなに動き悪いの?
になるのだろうけど、高校生の頃とは完璧に違う。

強豪校ではなくて県立高校の部活。の野球部とて、私服着る暇もなく練習して毎週試合して、しょっちゅう怪我して病院通いして、ミヨシの固形石鹸と漂白剤大量消費して日々大量のご飯炊いた日はもう遠い。
あのノリで野球の練習してたら誰も仕事にならないよ。

その草野球の日々も今は遠い。
これで息子野球とはおじいさんになるまでエン切れるか?
と思いきや、とんでもないご縁が出来てきた。

就職先が新聞社なもんだから取材に行くようになった。
だが、これは本人的なこと。
わたしが息子の取材にくっついて歩くわけにはいかない。

ホント、あと5人くらい男の子生んでおけば良かったヽ(;▽;)ノ





高校球児のためのお料理

今にして思い出したこと。
朝に夕に大量のご飯炊くこともなくなった。

それが何時からだったかというと、大学に入学してからだと思う。
大学に通うようになってからもうお弁当を持っていかなくなった。

夕食も高校球児の頃のように大量に食べなくなった。

うちの息子はよく言うスポーツを辞めたあとは体重が増加する。
ことはなく、痩せた。

これは野球の練習を毎日していた頃の筋肉が落ちたからだ。と、本人は言っていた。
それもアリだろうが、自然と食事の量が減ったのだ。

驚異的な痩せ体質。とも言ったが、高校卒業して最早10年以上、未だにモデル体型とも言える手足の長い細身の体型をしている。
ご飯をあまり食べなくなったのも、この体型を維持したいからでなく、もともと食い意地が張ってないのだ。

一人っ子だからだ。とも言われたけれど持って生まれたものだと思う。

高校生の頃、大量の食料の買い出しと調理するわたしも結構なおお仕事だったけれど、それ食べる息子の方も大変で無理にでも食べる。
食べないと痩せる。
痩せては困るので食べる。
ダイエットしてる人には羨ましいような話だが、運動しても痩せる。やめても痩せる。

うちにはプロディンの大袋もあって、わたしは常時牛乳は一度に2パック買っていた。

これです。

このようなプロティンがどんな作用を及ぼすのかわたしは飲んだことがないのでわからない。

わたしも若い頃は痩せていたが、息子高校生の頃から太めとなる。
これは息子に調子合わせて食べていたのが悪いんじゃないか?と、思う。

最近、大昔に捻挫した左足首が痛くなった。整形外科に行ったがどこも悪くない。って(・3・) アルェー
だが、太目になった影響が出たのと確信し息子に合わせてわたしも痩せよう。
と決意。

あのようなプロティンが良いのか?
と、息子帰省のおりに質問する。

わたしの年齢、性別、運動量からすると↑のプロティンは不向き。とのこと。

アミノバイタル勧められた。

それで、わたしが行う運動。バレエのレッスンの直後に飲む。
どのような作用があるのかというと、運動に必要なタンパク質を効果的に補って、筋肉量が増えれば代謝が高まって痩せる。
びっくりすることに効果はあった。

60キロ近くあった体重が56キロまで減った。
わたしの20歳時の体重は48キロ。

年齢考えて適正体重は51キロ。
51キロまで減量すれば悪くない。と言われても時々痛くなる左足首が痛くならなくなるか?

息子、草野球さえも完全引退の今、取り組んでいるのはわたしの減量。





2016年夏の甲子園

2016年5月車とともに息子は家からさった。

息子曰く、車通勤及び地方なので取材に車は使う。
車買う費用は会社が貸してくれるが、どうしようか、、?

うちの車を持って行くんだ。うちはなんとか車なしで生活するから。
「県外に出るわけにはいかないから2年は帰って来ない。」

そのように言い残して去って行ったが、その割にはたまには帰省した。

ただ、うちの車持って行ってくれたはいいが、息子名義に書き換えなければ車両手当?!が出ない。
書き換えは行えばいいが、、、。

そうだ!社会人になったのに実印作ってやるの忘れた。
どうしようか?
実印は息子自前で作ったと。
はぁ、、、もう完全にわたしの手から離れた。

そして、負傷して帰ってきたあの草野球最後に今度こそ本当に野球からは卒業だな(-_-;)さみしぃ。




そのように、息子、家から離れ野球も卒業し(次、野球の選手となるのはジイさん草野球の選手となる時であろう。)息子なき日々に慣れた夏。

息子夏の甲子園大会に行くことが決定したと。
もちろん選手ではない(当たり前だ。)取材に行くのだ。
やったじゃないかv(=^0^=)v

夏の甲子園大会今年はどんなドラマが繰り広げられるのか?
楽しみじゃないか!
と、言ったら遊びに行くんじゃないんだと(^_^;)

春の高校野球の茨城県大会には取材に行ったので、その様子も聞いたが記者席にずっといるわけではなくてスタンドで取材をしているそうだ。
春はとにかく、夏の甲子園は暑いだろう(~Q~;)大丈夫か?

大丈夫だわ。いささかヤキが回ってきているとはいえ元高校球児どれだけ真夏の太陽のもと練習して試合してきたか!

わたしもよく付き合ってきたものだわ。
NHKのプレスが行き交う中にうちの息子もチラと映っていた。

辛いだろうが頑張るのだよ。
と、メール送ったら、なかなかどうして暑かったけど楽しかったそうだ。

そっか、また甲子園に取材に行けるといいね(・∀・)イイネ!!




草野球

息子大学卒業後も野球は続けました。
高校のチームメイトとの草野球チームと職場の塾のチームに所属。
もっとも以前のように毎日カタギの練習をするわけでも毎週試合があるわけでもない。

たまに気まぐれに試合に行く。
自分で車は運転して試合が行われるスタジアムへ行く。

もうこの頃にはわたしは息子の追っかけすることもなく、追っかけは専らプロ野球にシフトしていた。

あるとき突然明日試合だって、このようなノリで試合に赴く。
だがわたし、そうよ。スライディングパンツどうする?

高校卒業してから履いてないが、怪我するよ。

うちの息子はスライディングパンツ(>_<。)嫌いだ。 高校の頃はマナーとしても履きなさい。という指導受けていたので着用していたが、高校卒業以来着用義務じゃなければはいていない。 だが、高校生の頃と違って今のスライディングパンツかっこ良くて通気性のいいものが揃ってるらしい。 怪我防止のためにもひとつ買ったらどうだ? っても最早、滅多にない野球の練習と試合、そんなこと話し合いながらも大抵は忘れていた。 なのでこの場面息子曰く、「スライディングしないからいい。」

これがスライディングパンツ、高校1年の頃は野球用品専門店で買ったけれど、今はネットでいくらでも買える。

だが、この日の試合勝ったか負けたかなんて覚えてないが、子供の頃から培ってきた試合のカン。
やはり、スライディングしてきて盛大な擦りむき傷を作ってきた。

だからスライディングパンツはけって言ったのに、、。
大判の絆創膏と、消毒液を、、。

(*´∀`*)ほ、もううちにはちっこいバンドエイドとマキロンしかない。
栄光の高校球児時代は、大判絆創膏、消毒液、それをに塗る特大綿棒、ガーゼその他、保健室の如く揃っていた。
だが、それも最早過去の栄光。したがって大判の絆創膏その他は家にはない。

わたしこればかりは楽天でもアマゾンでもなく最寄りの薬局に買い求めに行く。
だがらスライディングパンツはけって!!

で、うちはそれから↑のスライディングパンツ買ったかというと、とうとう草野球の試合もこれで打ち止め。
この日のユニフォームの洗濯もミヨシの固形石鹸使わずともなんとかなる程度の汚れ。
スライディングパンツ問題はカタがつき。

就職して家からは通勤できないので家を出て一人暮らしをする。

とうとうこれで息子も野球とは縁が切れるのか(;_;)

だが、息子の野球とりわけ高校野球との縁は深く。
プレスカードと新聞社の腕章携えて、高校野球をただ!どころか給料もらって観戦している。
いいな~。って、取材して記事書くんだよ。

今年も高校野球の試合取材に行くのかな?




芸能活動の日々

大学卒業後、芸能活動の日々を送っていたある日。
テレビドラマ出演の話が舞い込む。

やったね(*´∀`*)
どんな役がついたのか?セリフは?

だがだが、付いた役はその他大勢の役でセリフはなく会議室で会議をしている場面に出演するって、、。
でも良いわ。ビデオ収録しとかなきゃならないわ。

テレビドラマ収録の日、朝早く出かけた息子、多分夜9時頃帰る。
と、言って家を出た。

だが、その夜。待てど暮らせど息子は帰らない。
ドラマ撮るって多分そうなんだ。
いつ終わるかなんてわからなんだろう。

息子終電で帰る。
実はまだ撮り終わってはないのだけれど、終電に間に合うようにエキストラは帰されたそうだ。
当然、息子たちはほとんどが待ち時間、だが、メイクしてもらって衣装合わせもしたそうだ。

お弁当も出て、ちゃんとギャラももらいましたよ。






うちのビデオもちゃんと収録いたしました。

わたしのクレンジングオイルでメイク落とししてその日は息子眠る。

保育園から高校まで(大学はママ友出来なかった。)ママ友となった男の子のママで多分、これはうちの子だけ!

なのはわたしとクレンジングを共用して使ったこと。
芸能界引退(卒業)の日には、不要となったメイク用品私にいくつかくれた。

わたしの化粧バックには青のドーランがふたつある。
一つはわたしが使っていたバレエの舞台用アイシャドウに使う。
一つは息子の芝居の舞台で使った(顔面に塗ったのだ。)こんなのふたつも要るか?

舞台用のパウダーもくれたのでこれはわたしが普段の化粧で1年で消費した。

この青のドーランいくらかでも消費するためにわたしもそろそろバレエの舞台に復帰しようかな?





就職 息子が家を去った日

2016年5月、とうとう息子が家を去った。
家出したわけではない。
5年遅れの就職をしたのだ。

卒業して5年、正確には4年半おたくの息子何してたのさ?
ニートしてたワケではありません。
塾講師しながら芸能活動していたのです。

野球ロスだの空の巣症候群だのと言っても息子は家にいて、務めた舞台観に行って高校球児の頃とはまた違った楽しい日々ではあったのです。

最初の舞台での役が付いた時はやったね(*≧∀≦*)
で、わたしも小さな劇場に張り切って観劇に行きました。

夜遅くまでの稽古のあと、役者のお友達が家に泊まりに来たこともありました。
それがまた、途轍もなく過酷な舞台でよくもまあ役者の皆さんからだが持つものだ。

と、感心さえして、だが、いくら過酷な舞台に出演しても幾らかのギャラになっても、稽古の期間はバイトを休む。
プロダクションからは契約打ち切られた、、、。



このままでいいのか、、?
中学卒業した時点では、わたし野球より芸能のレッスン受けるように唆していたので。
「いい加減芸能活動は諦めてフツーに職探しをせよ。」
とは、言いませんでした。

とはいえ、すでにステージママの必要な年齢でもなくなっていた。
またまた、夜、俳優のお友達がやってきて稽古をしてました。

ちょうど隣の家が空家になって頃だった。
どこにも迷惑はかからなかったであろう。良かったヽ(;▽;)ノ

そのような日々が続き、わたしは暇があればプロ野球の追っかけをしつつ、この頃からそうそうわたしが遊んでもいられなくなったので音楽教室の仕事にも精を出しでいた。
なんとか芸能活動でやっていけないものか?

だが、わたしだって演奏活動ではやっていけずに大抵のコンサートは息子の舞台ほどのギャラも出ず、、。(引退したわよ。)
でも、舞台は麻薬だからって。

それはわたしもよくわかる。

そのようなある日、新卒採用での年齢がギリだがエントリーしてみる。
ことになり、筆記試験やら面接や通算10回くらいも採用試験はあり、次は重役面接なので最後だから。

と、家をあとにした息子。
「内定した。」と電話。

待てよ。本当か?で、就職するのか「就職する。」
やっぱり、ホッとした。
そうよ。不安定な職業はわたしひとりでいいよ。

2016年息子引退。いえ、最近は卒業というそうだ。
2月に引退公演して、その年4月オールドルーキーとして入社式に臨みました。
その時の入社で昭和生まれはふたりだけ。

息子は新聞記者となって、5月に赴任地の茨城へと旅立って行った。